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題目と念仏の違い

2016.04.18

bukkyou

題目とは法華経の正式名称である『妙法蓮華経』に、帰依する意味の南無を冠した「南無妙法蓮華経」。

念仏とは阿弥陀如来に帰依する意味の南無を冠した「南無阿弥陀仏」。日蓮宗では題目を唱え、浄土宗・浄土真宗などでは念仏を唱えることで救われるとしている。その違いはどこにあるのか?

まず第一に、依って立つ経典の違いが挙げられる。題目が依経とするのは前述の通り『法華経』である。それに対し念仏は浄土三部経と呼ばれる『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』を依経としている。

 

 中国で膨大な経典を整理した天台大師は、釈迦が説いた仏教を五つに分け、最高の経典を法華経とした。法華経の序分として説かれた『無量義経』には、「種々に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず」(人々の理解力が未熟であったので、方便によって経を説いてきた。これまでの四十数年にはまだ真実を説いていない)とあり、次に説く法華経こそが真実経であると明言している。念仏が依経としてる浄土三部経は、未顕真実の経であり、法華経に導くための方便。すなわち、真に人を救うのは法華経であり、現在の末法の世では題目を唱えることで幸福に導かれるのである。

 

 

 第二に、仏の違いがある。釈迦如来が実在したインドのシッダールタ太子が悟りを開いた仏であるのに対し、阿弥陀如来は経典の中に現れる仏である。法華経の化城喩品という章の中に、大通智勝仏の十六人の王子の一人として阿弥陀の名が登場する。そして西方世界で法華経を説いているとされ、我々がいる娑婆世界では釈迦如来が法を説くと記されている。日蓮聖人はこの部分から「阿弥陀仏等の十六の仏は、昔大通智勝仏の御時、十六の王子として法華経を習うて後に正覚(悟り)をとらせ給へりと見えたり。阿弥陀仏等も凡夫にておはしませし時は、妙法蓮華経の五字を習ひてこそ、仏にはならせ給ひてはべれ。まったく南無阿弥陀仏と申して正覚をとらせ給ひたりとは見えず」(『題目弥陀名号勝劣事』)と述べている。

 

 

 第三に教えの違いとして、題目が唱えることによって現在の世界の即身成仏をめざすのに対し、念仏は唱えて西方十万億土の彼方にある阿弥陀仏の極楽に生まれようとする。浄土宗の開祖である法然は、自力で救いを求めることはできないとして、浄土三部経以外の経典は「捨てよ、閉じよ、閣けよ、抛てよ」と言って排斥した。しかし、阿弥陀仏の本願を説く教えの中に、正法を誹謗する者は救済の対象から除くというものがある。その正法とは法華経であり、それを排斥することは自ら阿弥陀仏を否定することに他ならない。

 

 

 また、この世界で仏になった釈迦如来の教えを捨てて、はるか彼方の縁もゆかりもない阿弥陀仏に救いを求めるのは、自分の親を捨てて他人の親を慕うようなものである。さらに自ら幸福を求めようとする題目と、他力によって良い所に生まれ変わろうとする念仏とでは、現在を前向きに暮らしていこうとする気持ちの入り方が違う。

 

 

 以上、三点にわたって題目と念仏の違いを論述した。どちらが衆生救済という仏の教えに沿い、私たちの生きる力になるかはお分かりいただけたと思う。