3月
2025年
感謝と反省が前向きな人生を開く
自分の限られた視野を越えるとは
仏教には「随喜」と「懺悔」という教えがあります。言葉としては聞いたことがあると思います。随喜とは法(教え)を聞いて心に大きな喜びを感じること、また懺悔とは自ら犯した罪を仏・菩薩に告白して許しを請うことです。
この2つは、私たちが信仰生活を送るうえでとても大切なことです。
これをふだん私たちが使っている普通の言葉に置き換えてみると、必ずしも正確ではありませんが、随喜は「感謝」に、懺悔は「反省」に、それぞれ当てはめることができると思います。感謝と反省、これならば特別の説明はいりません。そしてまた、これはなにも信仰生活に限ったことでもありません。感謝も反省も、人間が人間らしく生きていくうえで、やはり欠くことのできない大事なことなのです。
ですから私たちは、日常生活を営むうえで、信仰者としてはもちろんのこと、一社会人としてもよりいっそうこの教えを意識していなければならないでしょう。
さて、感謝と反省が大切だといっても、もちろんそれには心がこもっていなければなりません。ただ形だけで「ありがとうございます」「申しわけありません」というのでは、ほとんど無意味であります。みなさんの日常はいかがですか。案外形だけで終わっているケースが多いのではないでしょうか。では心をこめるということはどういうことなのでしょうか。
心をこめた反省というものには、「もう失敗はすまい」「二度と過ちは繰り返すまい」という、将来へ向けた誓いを伴わなければなりません。そこになにがしかの進歩が見られるはずです。
感謝も同じです。本当に感謝したのなら、なんらかの形に、行動に、それが表れてこなければなりません。 私たちが信仰を持つうえで、もちろん人間らしく生きるためにも、この「感謝」と「反省」の二つが大切だというのはそこのところなのです。
信仰を持つことによって、感謝と反省を基本とした日々を過ごすことによって、私たち自身の生き方が毎日毎日変化していくのです。これこそ私たちの信仰の目的であり、また大きな効果でもあるのです。
ここまでの話は、ごく常識的な話ですので、どなたにもご理解いただけると思います。しかし、最初にお示しした随喜と懺悔という教えの言葉は、実はそれだけのことではありません。随喜も懺悔も、もっともっと深い意味があるのです。ただ私たちのふだん使っている感謝と反省という言葉に置き換えるだけでは、始めに「正確さを欠く」とことわりを添えたように、不充分なのです。
では、何が常識的でないのか、深い意味とはどういうことなのか、ということになります。
それは、随喜も懺悔も、無限の時間、無限の空間の中でとらえることだというのです。そういうとらえ方の中での感謝であり反省である、ということなのです。
みなさん、自分自身の存在というものをちょっと考えてみてください。自分というものは、自分の「視野」の中のみ存在しているのです。ここでいう「視野」とは、言うまでもなく、視覚の範囲ということではありません。時間的にも空間的にも、自分が体験や学習等によって認識できる世界、その範囲のことです。
たとえば、「私」は△年△月△日に△△で生まれて、父は△△、母は△△。△歳で△△大学を卒業して△△ 会社に入社し、△歳で△△と結婚して、……。あるいは、どういう本を読んで、どんな映画を観て、どこへ旅行して……。誰と知りあって、どんな影響を受けて……。
このように、自分が生まれてから今日までの見たり聞いたり経験してきたさまざまな知識、あるいはそこからめぐらす未知への想像、その「視野」が自分の世界なのです。そして当然、その視野は直接体験したことや身近な事柄ほど鮮明なものです。そういう視野の中に存在している自分にとって、視野の外というものは一切ありません。もし視野の外を認識しているとしたら、それは外ではなくて、すでに視野の内なのです。
少しややこしい話ですが、つまり人間は自分の「限られた小さな世界」の中で生きている、ということなのです。
ですから、私たちが感謝したり反省したりするというときも、その「限られた小さな世界」の中で、特にこういうものは視野の中でもごく身近な事柄に限定されるわけです。自分に親切にしてくれた人、何かくれた人に感謝する。あるいは自分を生み育ててくれた両親に感謝する。また、自分の犯した罪を反省する、失敗を反省する、等々。これが普通私たちのできる感謝であり、反省なのです。
ところが、仏様の教えは、そんな小さな自分の「視野」などというものに、とらわれてはいません。もっともっと大きな、無限の時間、無限の空間に根ざした教えなのです。「自分というものは、そういう無限の時間、無限の空間の中に存在するのだ」、仏様はそう説くのです。自分の限られた小さな「視野」を超越して、すべての生物、すべての人々、すべての自然に対して感謝をしなさい。無限の過去から犯しつづけてきた自分の罪に対して謙虚に反省しなさい。「随喜と懺悔」とはそういう教えなのです。
「聞いたこともない会ったこともない人に感謝しろといわれても、いったい何を感謝すればいいんだ」
「生まれる前のことなんか自分にはまったく自覚がないし、だいいち、前世なんて本当にあるのかどうかも分からない。そんな過去の身に覚えのないことを、どうして反省しなければならないんだ」
私たちには、自分をそんな大きな存在だとしてとらえることはできません。そう教えられてもなかなかそんなふうには思えないものです。そこに覚者といわれる仏様と、限られた小さな世界しか自覚できない私たち人間との大きなギャップがあるのです。このギャップを埋めない限り、私たちには本当の意味での感謝も反省もできないのです。
仏様の教えは、私たちの常識、つまり自分の限られた小さな「視野」の中での常識を遥かに越えたところの教えなのです。そして、仏様のその大きな大きな教えをそのまま受けとめる素直な心だけが、このギャップを埋めることができるのです。
その素直な心、これを「信心」と言うのです。