ここで命が尽きても、人生大満足

ここで命が尽きても、
人生大満足

大杉さん

子どものころは比較的元気だったのですが、結婚をしてから病気がちになり、これまでに大きな病気を5 つ、体験しました。そのうち3 つの病気で手術をしています。 最初は24 歳のときでした。結核を患い、医者は「もはや薬では治らない。手術をするしかない」というのですが、手術をすれば長期入院を余儀なくされることは分かっていました。2 人の幼い子どもを抱え、夫のことも心配でした。どうしたらいいのだろうと悩んでいるとき、兄が浄風会への入信を勧めてくれたのです。 余談になりますが、この兄というのは、本当は従兄弟なのです。私の実の母は、私が1 歳半のときに他界したために、私は母の兄の家の里子に出されました。里親である伯父夫婦は、私を実の子どものように育ててくれましたので、就職するときまで私は、実の親だと信じて疑いませんでした。就職のときに戸籍を見て、自分の姓が違うことに驚き、親に問いただして真相を知ったのです。 さて、この兄は当時、親の反対を押し切って浄風会に入信したのでした。子どものときから信頼していたその兄が一生懸命に入信を勧めるものですから、藁にもすがりたい思いだった私は、迷うことなく入信を決意したのです。 その後、結核の症状が特にひどくなることもなかったので、そのまま医者にも行かずに数年が過ぎました。 28 歳のとき、今後はリュウマチを患いました。リュウマチには、その後、長い間、苦しめられることになりました。ただ、このとき、不思議なことが起こったのです。担当医には過去の病歴を話し、事情があって治療を途中で中断してことを正直に話ました。そのとき担当医は「結核は完全に消えています」というのです。 結核を診てもらった医者からは、「かなり病気が進行している」と言われていましたので、これには本当に驚きました。これがご利益というものかと、そのとき初めて信仰のありがたさを実感したのです。 そのころ、リュウマチを治すには1 回1 万円という高価な薬が必要でした。当時、6 畳1 間の家賃が6 千円の時代でしたから、いかに高価な薬か、お分かりいただけると思います。 こんな高価な薬を飲み続けなければならないのなら、いっそ死んでしまいたいと思ったものです。しかし夫と子どものことを考えると、死ぬこともできません。 このときも兄が助けてくれました。たまたま浄風会のご信者の方に薬剤師がいましたので、その方に兄が相談し、ほとんど同じ成分の薬を調合していただき、それを半額以下の値段で手に入れることができたのです。この薬が効いて、改善はしないものの、リュウマチの症状が進行することはありませんでした。この薬は8 年ほど飲んでいたように記憶しています。 いろんな病気を抱えながらも、いつしか病気と同居する術を身につけ、その後は、驚くような病気には罹(かか)らなかったのですが、60 歳のときに、今度は心臓に問題があることが分かりました。 実の母も心臓病で亡くなったと聞いていましたので、おそらく遺伝なのだろうと思います。今度こそ、助からないだろうと覚悟を決めました。ただこのときも、医者から、「リュウマチは全快している」と言われ、驚きました。  私はいったい幸運な星の下に生まれてきたのか、それとも不運な星の下に生まれてきたのか、またご利益というのがどういう形で現れるのか、このときほど分からなくなったことはありません。その答えが知りたいばかりに、信仰にもますます熱が入りました。 それから20 年、心臓病が悪化することもなく過ごしてきたのですが、3年前に、いよいよ手術せざるを得ない状況になったのです。弁膜の動きが鈍く、血液を送り出す力が弱くなったために、心臓内に血栓ができ、心臓も肥大していたのです。まず、血栓を取り除き、それから弁膜を取り替えるというのです。 それより数年前に、盲腸の手術と胆石の手術をしています。まして80 歳の高齢ですから、普通に考えれば、そんな大手術に耐えられるわけがありません。 しかし、このとき私は、自分でも不思議なくらい平常心を保つことができました。なぜなら、自分が幸運の星の下に生まれてきたことを確信したからです。病弱だった私がこの歳まで生きられた。このこと自体がご利益なんだ。法華経に出会えたこと、そのこと自体が幸運の証ではないか。そう思うことができたのです。 ここで命が尽きても大満足の人生だった。あとは、すべてをご法様に委ねよう。そう心を決めたとき、なんとも言えない穏やかな気持ちになることができました。 7 時間の大手術は成功し、私は今も元気に生きています。

信仰に支えられて飄々と生きる

信仰に支えられて
飄々と生きる

小林さん

私が浄風会に入信したのは、私たちが大東亜戦争と呼んだ、あの太平洋戦争がきっかけでした。 私は大正15 年1月19 日に東京・青山に生まれました。徴兵を受けた最後の世代で、それ以降の人たちは、すべて志願兵ということになります。 私が入隊したのは、昭和20 年の7月でした。すでに沖縄が米軍によって占領され、いよいよ本土決戦という空気が強まってきたときです。本土決戦になれば、鉄道や道路など輸送機関は真っ先に破壊されることが予想されたので、私たち初年兵は入隊当初、河川での物資輸送のための船舶兵として配属されました。 その船舶兵に特攻隊志願の命令が下されたのは、入隊1ヶ月後の8 月初旬でした。特攻隊は、表向きはあくまでも「志願」の形をとっていましたが、実態は半ば強制的に志願させられるのです。 特攻隊というと、神風航空特攻隊を想像される方が多いと思いますが、当時は、対戦車用人間地雷特攻隊や、人間魚雷の回天特攻隊などもありました。私たち船舶兵に命じられたのは、ベニヤ板で作ったモーターボートに250 キロ爆弾を積んで敵艦に体当たりする海上特攻隊と呼ばれるものでした。 幸い、出撃する前に終戦になりました。生き残ってみると、虚脱感の中に、どうしても拭いきれない思いが一つ残りました。それは、空襲で亡くなった母と妹を回向してやれなかったことへの悔恨でした。 入隊する直前の昭和20 年5 月25 日、東京には、3月に続く2度目の空襲があり、この空襲で母と妹が亡くなったのです。荼毘(だび)に付すにも、火葬所に運ぶ手段もなく、しかたなく、ある宮家のそばの敷地を借りて荼毘に付しました。僧侶もおらず、回向するお経を知らない父と私は、ただ黙って手を合わせるしかなかったのです。涙だけが、止めどなくあふれ出てきました。 戦後は昭和21 年9 月から、吉田謙吉という学生時代の友人の家にやっかいになりながら、彼の家業を手伝っていました。その吉田家が浄風会の信者だったのです。 母と妹の荼毘を前にして何もできなかったことに、忸怩(じくじ)たる思いを抱いていた私は、吉田の勧めで浄風会に入信したのです。昭和21 年10 月25 日でした。お題目を唱え、母と妹の成仏を祈りながら、二度とあの悲惨な戦争を繰り返すまいと誓いを立てたことを、昨日のことのように覚えています。 その後、吉田の妹と結婚した私は、その翌年の昭和27 年に、彼の縁戚の会社に転職しました。そして、昭和49 年、先代の死去に伴い、後を引き継いで経営することになったのです。会社が順調に成長したところで、後継にバトンタッチした私は、しばらくの間、経営の一線を退き、会長として日々を送っていました。 しかし、3 年後、会社が資金繰りかうまくいかず倒産の危機に直面したため、私は経営の建て直しのために呼び戻されました。 再度、経営のトップに立って必死に采配を振るいましたが、戦後最大の不況という悪条件も手伝って、平成13 年に、会社は破産のやむなきに至りました。会社の負債を個人保証していた私は、70 代半ばにして無一文になってしまいましたが、長年、苦楽を共にしてきた社員を同業の社長にお願いし、ほとんど全員を速やかに再就職させることができ、ほっとしました。 不思議なことに、人生最大の危機に直面しても、特に焦ることも落胆することもありませんでした。どんな苦しみも、すべてはご法様のお計らいであり、そうであれば、この苦しみを前向きに考え、休息をいただいたのだと信じることができたからです。実際このとき、家族や大勢の知人が、物心両面で救いの手を差し伸べてくださり、人情の温かさを感じ、静かに暮らし続けることができたのです。信仰に支えられた生き方が、いつの間にか、大きな人脈を築いていたことを知り、信仰の底力を見た思いがしました。 信仰に支えられて飄々と生きる。それが、私の人生スタイルなのかも知れません。

亡き娘に勧められた信仰

亡き娘に
勧められた信仰

植田さん

自分のこれまでの人生を振り返ってみますと、ある一点の出来事を除けば、それなりに山や谷はあったものの、比較的落ち着いた人生だったと思います。 私は滋賀県八日市市に生まれました。次男坊だったために旧家の習いで、小学校を卒業したら早々に家を出なければなりません。 私は、東京・日本橋の衣料品問屋に住み込みで働くことになりました。当時の言葉で言えば小僧です。ここに15 年間勤めてから独立し、小岩に店を出しました。主にベビー用品や婦人物を扱う衣料品店です。 小岩にも15 年おり、43 歳のときに茨城県牛久市に店も住居も移したのです。東京と違って人口が少ない上に、そのころから、ファッションに対するお客の嗜好が変化し始め、店の売上は大きく減少しました。加えて、3 人の子どもたちが学齢期を迎えたこともあって、家計を助けるために、店を家内に任せ、私はタクシーの運転手を始めました。 幸い、店のほうは学校関係の大口顧客を獲得することができ、なんとか苦境を乗り切ることができましたが、タクシーの運転手は70 歳まで続けました。 さて、私の人生を大きく揺るがす出来事が起こったのは小岩に移り住んで6年目のことでした。 すでに男の子が2 人いましたが、その年に待望の女の子が生まれました。美由紀と名付けました。 親ばかと言われそうですが、本当に可愛い子どもでした。あるとき、子どもを抱いて町を歩いていると、すれ違いざま、女子高生たちが娘を見るなり、「あ、可愛い」と驚いたように言うのです。中には「こんな可愛い赤ちゃん初めて見た」と言う人もいました。可愛いと思うのは親の欲目だと思っていた私も、改めて娘を見ると、ただ可愛いのではなく、まるで菩薩のような神々しさがあるのです。私はうれしくてうれしくて、何度もほおずりをしたものです。 ところが生後8 ヶ月を 迎えたころから、美由紀は嘔吐を繰り返すようになりました。 近所の医者はただの風邪だろうというのですが、どうにも心配で東大病院で診てもらったところ、脳腫瘍が発見されました。 私は一瞬にして地獄に突き落とされたような気持ちでした。それまで宗教には関心のなかった私が、生まれて初めて宗教に救いを求めました。 噂を聞き付けていろいろな宗教関係者がやってきましたが、どの宗教も、単に信者を獲得したいがための魂胆が見え見えで、私や家内の気持ちに対する配慮が感じられませんでした。 宗教ですらこのありさまでは、もうこの世に救いを求めることはできないとあきらめかけていたとき、近くに住む浄風会の方に出会ったのです。その方は、私の話にじっと耳を傾け、いっしょに泣いてくださいました。この方がしている信仰ならと、その日のうちに浄風会に入会したのです。 数日後、娘の手術が行われました。その日、私の家に大勢の浄風会の方がお出でになり、娘のために一心にお題目を唱えてくださいました。 残念ながら、美由紀はその日、1 歳2 ヶ月という短い生涯を閉じました。悲しくないといえば嘘になりますが、そうした感情とは別の充足感がありました。 後に、浄風会には次のようなお教歌があることを知り、美由紀が命をかけて親に信仰を勧めたのだと確信する一方で、浄風会の皆さんの絆の強さ、そしてその教えの深さを実感しました。 「信心の宝授けんそのために 仏はしばし子に生れ来つ」

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浄風会は、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えることで、誰もが意義ある人生を送れると説きます。また、個人の幸せだけでなく社会の平和を目指しています。

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