4月
2025年
今生の小苦
辛いことが起こったとき、御聖人の生き方に学ぶ
私は毎朝、仕事を始める前に、犬を連れて散歩をしています。朝の7時半ごろに家を出て、近所の公園のまわりを20分くらい歩きます。2月のこの時期はちょうどそのころ、太陽の光が公園に射し込みます。冬の朝の陽の光、本当に気持ちがいいです。
この陽の光は、誰にでも平等に降り注いでいます。「まるで日蓮聖人のようだなあ……」と思います。
御聖人の「日蓮」というお名前は、お日様と蓮華からきています。太陽の光が、すべての人に降り注いでいるのと同じような、また汚れた水のなかでも、そこに蓮華の花があるだけでまわり全体がきれいになるような、そういうお方が御聖人です。
そして私たちの抱えているさまざまな問題、たとえば、私たちが過去世で積んだ罪障など、そういうものをすべて消滅してくださるありがたい御法は、御聖人が伝えてくださった南無妙法蓮華経のお題目です。
さて、その御聖人は「大難四ヶ度・小難数を知らず」というご苦難のなかでご弘通をされてまいりました。そのなかでも最大のピンチは、次の二つだと私は思っています。
一つ目は、文永8年9月12日、竜ノ口で首を斬られそうになったこと。二つ目はその直後、佐渡流罪によって極寒の生活を余儀なくされたことです。
佐渡の2月、想像を絶する寒さです。降り積もる雪のなかで、わずかな食べ物しかない極限状態に追い込まれましたが、そのなかで御聖人は『開目抄』という大論文を書き上げられます。
その『開目抄』に、こう書かれてあります。
「法華経の行者であれば、現世は安息であるはずではないか。それが、こんなに迫害にばかり通っている。本当に私・日蓮は、法華経の行者といえるのであろうか?」
「わが身、法華経の行者にあらざるか」――こういう問いが何度も出てきます。
その問いに対して御聖人は、同じ『開目抄」でこう結論づけをされています。
「確かに自分は迫害に遭っている。しかし、法華経には、「三類の強敵が必ず出現して、法華経の行者を苦しめる」とも説かれている。現に今、日蓮は三類の強敵の責め苦に遭っている。この日蓮以外に、法華経の故に刀で切りつけられ、そして「数数見檳出」と、複数回にわたって島流しにされた者は、他に誰もいないではないか!」
佐渡への流罪が無かったなら、御聖人は法華経に予言されている「法華経の行者」にはならなかった。佐渡流罪あってこその御聖人であり、であるからこそ、本化上行菩薩が人間界にお生まれになったお方が、わが日蓮聖人です。
『開目抄』は、次のお言葉で結ばれています。
「日蓮が流罪は、今生の小苦なれば、なげかしからず。後生には、大楽を受くべければ、大いに悦ばし」
佐渡流罪は「今生の小苦」だと仰っています。
佐渡流罪という、想像を絶するようなお辛い日々が「今生の小苦」なら、御聖人に列なる私たち信者は、日常の小さなことでクヨクヨしていてはダメです。御聖人に叱られます。
生きていればいろいろと悩みは尽きませんが、辛いことがあったときは、どうかこの「今生の小苦」という言葉を思い出して、勇気と希望をもって、御聖人に褒められるような、そういう生き方をお互いに実践してまいりましょう。