宗教について

宗教について

信仰に反対する人へ①

信仰に反対する人へ②

信仰に反対する人へ③

「宗教そのものが信じられない」という人へ

◆科学は万能ではない
宗教は「死に対する恐怖心」や「漠然とした孤独感」、「人生の意味」といったこころの問題を取り扱います。たしかにそれは、科学的な方法では明らかにできない課題です。 たとえば仏教では、「人は死ねば終わりではない」と説きます。肉体の崩壊後も、「魂」ともいうべき霊的生命は存在し続けるというのです。これは、科学的には証明できません。だからといって「死後の世界はない」ということもまた、科学的には証明できません。
科学とは「実験と観察によって証明される事実をもとに、法則性を発見する学問のこと」と言えます。したがって、科学で証明できない事柄も当然あるし、だからといって「ない」と決めつけてしまうことも非科学的です。おそらく多くの科学者は、「科学には限界がある」と考えていることでしょう。
仏教が取り扱うこころの問題は、科学では解決できないのではないでしょうか。

◆仏教は人を「より良い生き方」へ誘う
仏教は、死の恐怖や孤独感を克服し、よりよく生きるための生き方を示してくれます。
仏教は、人生は苦に満ちているという「人生苦観」に立ちます。生老病死(しょうろうびょうし)や愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)といった四苦八苦は誰も避けることができないとしたうえで、それらの苦から解放された喜びに満ちた安心の境地に至る生き方を説いたのです。
 そこに示された生き方とは、「生死を超越した長い時間軸の中で自分を見つめ、刹那的になることなく、自らの正しい努力で明るい未来を切り開いていく」というものでした。その正しい努力が説かれているのが『法華経』です。そして、法華経に説かれた生き方を、誰でも実践可能な形にして示してくださったのが日蓮聖人です。日蓮聖人は、「南無妙法蓮華経と自ら唱え、人におすすめするだけで救われる」とお題目の信仰の道を開いたのです。
多少乱暴な言い方になりますが、「死後の世界」があるかないか現時点では解明できないが、「ある」と信じて正しく生きていくほうが、よりよく生きていくために有効だ、そう考えてみてはいかがでしょうか。

◆いつの日か科学的に証明できる日も…
科学の分野は日々に進歩しています。いつか科学が仏教のいただく真理に近づく日がやってくることでしょう。
その「いつか」が来る前からすでにその存在を信じ、勇敢に仏教の説く生き方を先駆けて実践している人は、時代遅れどころか人類の明るい未来を切り開くパイオニアです。それが日蓮聖人のお題目の信者なのです。

「幸不幸は心の持ちようで、宗教とは無関係」という人へ

◆熱いものは熱い…
宗教は幸不幸に必須のものではなく、要は心の持ちようだ。そのように考えている人がいます。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という言葉は、まさにこういった生き方・考え方を示しており、一見もっともに思えます。しかし、それは熱いものを冷たいと思えと強要しているだけではないでしょうか。

◆現実と向き合うことから始まる
日蓮聖人は、熱いものを冷たいと思えと無理難題を強要するようなことはしません。
鎌倉時代、日蓮聖人の有名な信者の一人に四条金吾頼基という人がいました。彼は、御聖人が無実の罪で処刑されかけた「竜の口の法難」の際に、「もし万一のことがあったときには、自分もあとを追って腹を切る」と覚悟を決め、刑場まで馬の口を取ってお供をしたほどの信仰心の篤い人でした。
四条金吾の主君の江馬光時は、熱心な真言律宗の信者でした。お互いに存在を認め合っていた二人は、信仰の違いについては口にせず、黙認する関係を続けていたのです。
しかし、自身の安易な妥協に耐えられなくなった四条金吾は、ついに主君の江馬殿に己の信仰をぶつけ、お題目のありがたさを説いて聞かせたのでした。そして主君の不興を買い、逆に「題目の信仰を捨てなければ所領を没収する」と言われてしまいます。
四条金吾は、たとえ所領を没収されても信仰を捨てないと断言し、ついには江馬殿から蟄居閉門(ちっきょへいもん)、領地没収を言いわたされてしまいます。その際、窮地に立たされた四条金吾に宛てて日蓮聖人が書かれたお手紙の中に、このような一節があります。
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経と唱えいさせ給え。これあに自受法楽(じじゅほうらく)にあらずや」(苦も楽も正面から受け止めて、いかなるときもお題目を唱えて前向きに生きよ。これこそ宗教的安心に他ならない)と。ここに日蓮聖人の示されたお題目の信仰の本質が示されているのです。

◆正しい信仰には効果がある
日蓮聖人の指導のもと少しもぶれることなく信仰を貫いた四条金吾は、江馬殿の病気が契機となって事態が好転し、やがて江馬殿の信頼を回復し、領地も加増されたのでした。
正しい信仰にはそれ相応の効果があります。なければ、なぜ多くの人が信仰するのでしょうか。お題目を心から信じて希望を失わず誠実に生きるとき、必ず事態は好転し、真に幸せな日々を迎えます。単なる心の持ちようではないのです。

「宗教者そのものが信じられない」という人へ

◆教祖と教団に対する不信感
新興宗教のカリスマ指導者に対して、多くの人は「絶対的な権威をもって信者と接し、独善的な説教で信者の自由を束縛し、ひたすら金と権力を追求する人物」というイメージを抱いています。そういう指導者に服従し貢献することが信仰だとする教団も、残念ながら存在します。そういった間違った教祖・教団の存在が、人々に「宗教は危険だ」という嫌悪感や危機感を抱かせているのです。 一方で、「宗教心は必要だ」と感じている人も少なくありません。今日、人は宗教的な心の豊かさを求めつつも特定の宗教団体には近づかない。それは、教団に対するアレルギーであり、宗教指導者に対するアレルギーだといえるでしょう。

◆善良な宗教的指導者とは…
宗教は、教えが大切です。特定の人物の超人的な能力によって判断してはいけません。たとえ不思議な能力を発揮する人がいたとしても、そういった能力が人を宗教的な幸福に導くことはありません。空中浮揚と称して浮かんで見せたカリスマ教祖が、多くの人を大きな不幸に陥れた一事を見るまでもないことです。
日蓮聖人は「善き師とはさしたる世間の失なくして、聊かの諂うことなく、少欲知足にして慈悲あらん僧の、経文に任せて法華経を読み持(たも)ちて、人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中によき第一の法師なりと讃められたり」(善い師とは世間的に大した欠点がなく、どんな相手にも少しも媚び諂うところがなく、欲張らない慈悲深い人で、経文の通り法華経を読んでお持(たも)ちし、人にも勧めてご信心をお持ちさせる人を、仏さまはすべての修行者のなかで素晴らしい第一の法の師であるとお褒めになっている)と仰せです。
これは日蓮聖人の言葉ですから、「法華経を読み持ちて」という結論になりますが、教えに従って生きることの重要性を述べているとご理解ください。
宗教的指導者であると同時に、一人の信仰者として正しい教えに従って生きている人は、その教えが人格に反映し、人格的にも「正善の師」といえる人物になっていくのです。

◆社会人の宗教こそ仏教の本道
私たちは、欲望と同居しながら生きています。欲望は生きるエネルギーでもあり、欲望をなくして喜びや感動に満ちた生き生きした毎日を送ることはできません。
欲望を手放すことなく、欲望に流されることなく、自分を見失わないで自分らしく生きる。そういう社会人の「生き方の指針」になる宗教が日蓮聖人のお題目の信仰であると、私たちは確信しています。