今月の教え

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2025

八風吹けども動ぜず

信者として生きるとき「変えるべきもの」と「変えてはいけないもの」とは

最近、私は寝る前の楽しみがあります。それはスマホでいろいろな動画を見るということです。あっという間に、30分、1時間が過ぎてしまいます。

特に昔のものを見ると懐かしいんですね。お笑いですとか、プロレス、ボクシング、相撲、歌番組等々、いろいろなものが見れるんです。
先日、見ているうちに大笑いしてしまったコントがありました。「コント・レオナルド」というコンビのお笑いなんです。もう亡くなってしまいましたが、レオナルド熊さんのトボケ振りがとても面白いんです。次のような話です。

車を運転していた熊さんが、警官に呼び止められるんです。

「お前いま、赤信号なのに渡ったな?」それに対して、
「そりゃしょうがないでしょ、飛ばしてたんだから・・・」スピード違反もしていたんですね。
「ここは一般道だぞ。制限速度を守らなくちゃだめじゃないか」という叱責に対して、
「だってウトウトしちゃったんだから、ちょっと見忘れただけですよ」なんと居眠り運転もしていた。
「お前、居眠り運転していたのか!」そう警官がたしなめると、
「だってさっき一杯やったんで、ちょっと眠くなっただけだよ」なんと飲酒運転までしていた。あきれた警官が、最後にこう言うんですね。
「しかし、お前みたいな奴がよく運転免許取れたよな」それに対して、
「免許なんて持っていないよ・・・」、そういうオチで終わる話なんです。

面白い話ですよね。最初に出てきた「信号無視、スピード違反、居眠り運転、飲酒運転」は、少なくとも「免許は持っている。それなのになんでそんな違反をしたんだ」、そういう前提で警官は話しているわけです。
それが最後になって、そもそも免許自体持っていない、そういうことで、いままでの前提が覆されてしまう。だから面白いんですね。

前提が覆される、これは法華経もそうですね。法華経を説かれる前に、お釈迦様は「二乗は仏に成ることはできない」そう仰っていました。
二乗というのは、阿羅漢果という悟りを得るために修行する人たちで、簡単に言えば、「自分だけが救われればいい」、ちょっとエゴイスト的な修行者です。
舎利弗・目連・迦葉・阿難といった人たちです。

お釈迦様は今まで、こういう人たちは仏に成れないと言っていたのに、法華経のご説法の場では、
「こういう人たちも仏に成れる」、そう仰る。
「いままで説かれていたことと全然違うじゃないか!」、そこから法華経が語られていくんです。

本日は勉強会ではありませんので、法華経の細かな話は致しません。ただ、この「前提が覆る」ということで考えますと、じつは私たちの身の回りも、いろいろと事例はあります。ちょっとそのことを申し上げたいと思います。

私は社会人になりまして40年以上経過しましたが、昔と今では、違うことがたくさんあります。

たとえば、「会社での女性の仕事」です。
私が社会人になりました頃は、10時と3時になりますと、お茶の時間がありましたが、だいたい女性が当番でお茶を入れていました。
あとタバコですね。あの頃は、さすがに製造現場でタバコを吸いながら仕事をしてる人は居ませんでしたが、事務職の人はだいたいオフィスでタバコを吸いながら仕事をしている。そういう人がたくさん居ました。その灰皿の片付けも、私の職場では女性がしていました。

また昔は「女性は遅くまで残業してはいけない」、そういうルールがありました。遅くまで働いていますと、「なぜそんな時間まで働かせてるんだ」と、管理職の方が叱られていました。

つまり昔は、「女性は守られるべき存在」、「難しい大変な仕事は男がやるべきなんだ」、そういう前提があったんですね。

ところが、いまはそういう前提はなくなりつつあります。女性は「守られるべき存在」というよりは、「男女の違いを認め合いながら、その中で出来るだけ平等に扱わられるべきである」、そういう風に変わってまいりました。

私は良いことだと思っています。ただ私も昭和の人間ですので、会社の中でも、つい昔流の考え方に沿った発言をしてしまい、あとで叱られるということを、何度か経験しております。昭和の方は要注意だと思います。

ではご信心の世界はどうでしょうか。結論をいえば、「変えるべきもの」は当然変えるべきです。

浄風会の先輩たちは、この御法を弘めるために、本当に努力をされてきました。しかし、先輩たちが活躍されました昭和・平成という時代は過ぎて、いまは令和という時代になりました。

御弘通という視点から、いまの時代にそぐわないと思えるものがあれば、その時は勇気を出して変えていくことが必要です。

また、「変えてはいけないもの」「変えてはいけない前提」もあります。それは「この御法を、人に弘めていくんだ、そういう心を常にもつ」ということです。

もうひとつは、「この御法を、死ぬまでお持ちし続けること」、この2つです。
これを忘れたら、本化仏教の信者ではない、そういうことになる、それくらい大切なことなんです。

1つ目の「人に弘めていくという心を常にもつ」ですが、これは前席での御法門にもありました。
「南無妙法蓮華経の種を社会に蒔いて、縁を結んでいくこと。それが社会を浄化することなんだ」。その通りです。
なかなか宗教に対して心を開かない、そういう時代です。やはり根気よく、お伝えしていく。お教化がなるかどうか、その結果ではなく、種を蒔くという、その活動が尊いんですね。

もう1つは、「生涯にわたってお持ちし続ける」ことですが、これも簡単ではないんです。
「此経難持」という言葉が法華経の宝塔品にあります。「此の経は持ち難し」、と読みます。
御題目をお持ちし続けることは、簡単にはできないんだ、そういうことです。

最後になりますが、私たちは凡夫であり、今生でお題目にお出会いした信者ではありますが、しかし、もう一つの面もあるということなんです。
それは、先ほどのお話で申し上げましたが、もしかしたら、私たちは遥かな過去からお題目を修行している本化の菩薩の一類であって、
この度、御聖人のご命令でこの世に誕生し、日々を生きている。そういう者たちかもしれません。

であれば、どういう生き方をしなくてはならないか、決まってきます。

 *このお題目を、生きている限りお持ちし、
 *毎日のお題目口唱を怠らず、(上求菩提)
 *常に人に弘めるという気持ちを忘れない(下化衆生)。

そのような「本化の菩薩」としての自覚をもって、今年一年、有意義な日々を送っていけたらと思います。
どうか皆さん、お互い様に頑張ってまいりましょう。ありがとうございます。

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2025

今生の小苦

辛いことが起こったとき、御聖人の生き方に学ぶ

私は毎朝、仕事を始める前に、犬を連れて散歩をしています。朝の7時半ごろに家を出て、近所の公園のまわりを20分くらい歩きます。2月のこの時期はちょうどそのころ、太陽の光が公園に射し込みます。冬の朝の陽の光、本当に気持ちがいいです。

この陽の光は、誰にでも平等に降り注いでいます。「まるで日蓮聖人のようだなあ……」と思います。

御聖人の「日蓮」というお名前は、お日様と蓮華からきています。太陽の光が、すべての人に降り注いでいるのと同じような、また汚れた水のなかでも、そこに蓮華の花があるだけでまわり全体がきれいになるような、そういうお方が御聖人です。

そして私たちの抱えているさまざまな問題、たとえば、私たちが過去世で積んだ罪障など、そういうものをすべて消滅してくださるありがたい御法は、御聖人が伝えてくださった南無妙法蓮華経のお題目です。

さて、その御聖人は「大難四ヶ度・小難数を知らず」というご苦難のなかでご弘通をされてまいりました。そのなかでも最大のピンチは、次の二つだと私は思っています。

一つ目は、文永8年9月12日、竜ノ口で首を斬られそうになったこと。二つ目はその直後、佐渡流罪によって極寒の生活を余儀なくされたことです。

佐渡の2月、想像を絶する寒さです。降り積もる雪のなかで、わずかな食べ物しかない極限状態に追い込まれましたが、そのなかで御聖人は『開目抄』という大論文を書き上げられます。

その『開目抄』に、こう書かれてあります。

「法華経の行者であれば、現世は安息であるはずではないか。それが、こんなに迫害にばかり通っている。本当に私・日蓮は、法華経の行者といえるのであろうか?」
「わが身、法華経の行者にあらざるか」――こういう問いが何度も出てきます。

その問いに対して御聖人は、同じ『開目抄」でこう結論づけをされています。
「確かに自分は迫害に遭っている。しかし、法華経には、「三類の強敵が必ず出現して、法華経の行者を苦しめる」とも説かれている。現に今、日蓮は三類の強敵の責め苦に遭っている。この日蓮以外に、法華経の故に刀で切りつけられ、そして「数数見檳出」と、複数回にわたって島流しにされた者は、他に誰もいないではないか!」

佐渡への流罪が無かったなら、御聖人は法華経に予言されている「法華経の行者」にはならなかった。佐渡流罪あってこその御聖人であり、であるからこそ、本化上行菩薩が人間界にお生まれになったお方が、わが日蓮聖人です。

『開目抄』は、次のお言葉で結ばれています。

「日蓮が流罪は、今生の小苦なれば、なげかしからず。後生には、大楽を受くべければ、大いに悦ばし」

佐渡流罪は「今生の小苦」だと仰っています。

佐渡流罪という、想像を絶するようなお辛い日々が「今生の小苦」なら、御聖人に列なる私たち信者は、日常の小さなことでクヨクヨしていてはダメです。御聖人に叱られます。

生きていればいろいろと悩みは尽きませんが、辛いことがあったときは、どうかこの「今生の小苦」という言葉を思い出して、勇気と希望をもって、御聖人に褒められるような、そういう生き方をお互いに実践してまいりましょう。

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2025

感謝と反省が前向きな人生を開く

自分の限られた視野を越えるとは

仏教には「随喜」と「懺悔」という教えがあります。言葉としては聞いたことがあると思います。随喜とは法(教え)を聞いて心に大きな喜びを感じること、また懺悔とは自ら犯した罪を仏・菩薩に告白して許しを請うことです。
この2つは、私たちが信仰生活を送るうえでとても大切なことです。

これをふだん私たちが使っている普通の言葉に置き換えてみると、必ずしも正確ではありませんが、随喜は「感謝」に、懺悔は「反省」に、それぞれ当てはめることができると思います。感謝と反省、これならば特別の説明はいりません。そしてまた、これはなにも信仰生活に限ったことでもありません。感謝も反省も、人間が人間らしく生きていくうえで、やはり欠くことのできない大事なことなのです。

ですから私たちは、日常生活を営むうえで、信仰者としてはもちろんのこと、一社会人としてもよりいっそうこの教えを意識していなければならないでしょう。

さて、感謝と反省が大切だといっても、もちろんそれには心がこもっていなければなりません。ただ形だけで「ありがとうございます」「申しわけありません」というのでは、ほとんど無意味であります。みなさんの日常はいかがですか。案外形だけで終わっているケースが多いのではないでしょうか。では心をこめるということはどういうことなのでしょうか。

心をこめた反省というものには、「もう失敗はすまい」「二度と過ちは繰り返すまい」という、将来へ向けた誓いを伴わなければなりません。そこになにがしかの進歩が見られるはずです。

感謝も同じです。本当に感謝したのなら、なんらかの形に、行動に、それが表れてこなければなりません。 私たちが信仰を持つうえで、もちろん人間らしく生きるためにも、この「感謝」と「反省」の二つが大切だというのはそこのところなのです。

信仰を持つことによって、感謝と反省を基本とした日々を過ごすことによって、私たち自身の生き方が毎日毎日変化していくのです。これこそ私たちの信仰の目的であり、また大きな効果でもあるのです。

ここまでの話は、ごく常識的な話ですので、どなたにもご理解いただけると思います。しかし、最初にお示しした随喜と懺悔という教えの言葉は、実はそれだけのことではありません。随喜も懺悔も、もっともっと深い意味があるのです。ただ私たちのふだん使っている感謝と反省という言葉に置き換えるだけでは、始めに「正確さを欠く」とことわりを添えたように、不充分なのです。

では、何が常識的でないのか、深い意味とはどういうことなのか、ということになります。

それは、随喜も懺悔も、無限の時間、無限の空間の中でとらえることだというのです。そういうとらえ方の中での感謝であり反省である、ということなのです。

みなさん、自分自身の存在というものをちょっと考えてみてください。自分というものは、自分の「視野」の中のみ存在しているのです。ここでいう「視野」とは、言うまでもなく、視覚の範囲ということではありません。時間的にも空間的にも、自分が体験や学習等によって認識できる世界、その範囲のことです。

たとえば、「私」は△年△月△日に△△で生まれて、父は△△、母は△△。△歳で△△大学を卒業して△△ 会社に入社し、△歳で△△と結婚して、……。あるいは、どういう本を読んで、どんな映画を観て、どこへ旅行して……。誰と知りあって、どんな影響を受けて……。

このように、自分が生まれてから今日までの見たり聞いたり経験してきたさまざまな知識、あるいはそこからめぐらす未知への想像、その「視野」が自分の世界なのです。そして当然、その視野は直接体験したことや身近な事柄ほど鮮明なものです。そういう視野の中に存在している自分にとって、視野の外というものは一切ありません。もし視野の外を認識しているとしたら、それは外ではなくて、すでに視野の内なのです。

少しややこしい話ですが、つまり人間は自分の「限られた小さな世界」の中で生きている、ということなのです。

ですから、私たちが感謝したり反省したりするというときも、その「限られた小さな世界」の中で、特にこういうものは視野の中でもごく身近な事柄に限定されるわけです。自分に親切にしてくれた人、何かくれた人に感謝する。あるいは自分を生み育ててくれた両親に感謝する。また、自分の犯した罪を反省する、失敗を反省する、等々。これが普通私たちのできる感謝であり、反省なのです。

ところが、仏様の教えは、そんな小さな自分の「視野」などというものに、とらわれてはいません。もっともっと大きな、無限の時間、無限の空間に根ざした教えなのです。「自分というものは、そういう無限の時間、無限の空間の中に存在するのだ」、仏様はそう説くのです。自分の限られた小さな「視野」を超越して、すべての生物、すべての人々、すべての自然に対して感謝をしなさい。無限の過去から犯しつづけてきた自分の罪に対して謙虚に反省しなさい。「随喜と懺悔」とはそういう教えなのです。

「聞いたこともない会ったこともない人に感謝しろといわれても、いったい何を感謝すればいいんだ」
「生まれる前のことなんか自分にはまったく自覚がないし、だいいち、前世なんて本当にあるのかどうかも分からない。そんな過去の身に覚えのないことを、どうして反省しなければならないんだ」

私たちには、自分をそんな大きな存在だとしてとらえることはできません。そう教えられてもなかなかそんなふうには思えないものです。そこに覚者といわれる仏様と、限られた小さな世界しか自覚できない私たち人間との大きなギャップがあるのです。このギャップを埋めない限り、私たちには本当の意味での感謝も反省もできないのです。

仏様の教えは、私たちの常識、つまり自分の限られた小さな「視野」の中での常識を遥かに越えたところの教えなのです。そして、仏様のその大きな大きな教えをそのまま受けとめる素直な心だけが、このギャップを埋めることができるのです。

その素直な心、これを「信心」と言うのです。

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2025

罪障消滅と菩薩行

二、三日前の新聞にこんな記事がありました。東京都三鷹市の小学校四年生の男の子の短い詩です。

題は『ずっといる』……です。

ぼくはかえらないよ
いばらきにずっといる
いばらきに五千泊する

(三鷹市第六小学校四年生)

詩の「評」の欄に、「茨城県のおばあちゃん家で、「五千泊」すると、帰る頃には大人になってますね」とありました。(読売R7、1/29)

ほほえましい詩ですが、少年にとって自然とともに生きているおばあちゃんの生き方や生活は、都会の生き方や生活とはまったく違った魅力的な世界だったのでしょう。

お父さんやお母さんにとっても、たとえひと時ではあっても日常生活とは違う時間の流れるなつかしい世界だったのかも知れません。自然と愛情のなかで子どもがイキイキと遊び、おばあちゃんと会話し、いろんなものに興味をもち発見し体験するわが子を見るのは、自分の子どものころを思い出して、親も嬉しいのではないでしょうか。ふるさと……そこには人間が人間らしく生きる、ゆったりとした時の流れがあります。

目まぐるしく移り変わっていく現代生活で、人は毎日ストレスを強いられ、忙しく数字に追われ、結果や成果に追われて心身を擦り減らしていきます。しかし、家族を養っていかなくてはなりません。社会を渡っていくのは大変です。いつアクシデントやトラブルがあるかわかりません。

そういう今の社会に生きていく人生で、「気やすめ」や「縁起かつぎ」でなく、あたたかい家庭・嵐がきてももちこたえられる家族を創っていくための 「人生の柱」や「こころのオアシス」が、本当は必要なのではないでしょうか。本当は神仏のご加護がなければ到底安心して暮らしてはいけない毎日なのではないでしょうか。

それに、家庭生活や社会生活を前提にして、それぞれの個性を生かしながら家族やご信者同士が利害損得を離れて交流できる、共通の場や時間が必要になってきます。そこに「在家信行」「在家教団」の社会的必要性があります。

私たちご信者は毎日お題目をお唱えしていますが、「南無」というのは「帰依します」つまり「深く信じます」という意味です。そして「南無妙法蓮華経」とは、「妙法蓮華経に説かれた仏さまの真理に帰依します」ということです。

もちろん、ご信心をいただいたからといって、よいことばかりではありません。雨の日もあれば風の日もあります。しかし、帰依するものがあれば、受けとめ方が違ってくる。受けとめ方が違えば見えてくる世界が違い、やがてその人の世界が変わってくるのです。

自覚しようとしまいと人は皆、無始以来の過去世の罪障を持って生まれてきます。罪障はその人それぞれの形で現れますが、その時「信心してるのに、なぜ」と思いがちです。しかしその時が、誰彼の間題ではなく、自分自身の罪障消滅の問題であり、信心決定の時なのです。やがて雨風がやんでまぶしい青空が広がっていきます。日真大徳のお教歌に、

「根は浄土 枝葉は娑婆の菩薩行 雨降らば降れ風かけば吹け」

新年を迎えて、新たな気持ちで今年も菩薩行のご信心に励んでまいりましょう。

合掌

1

2025

ご信心における心と形の関係

『礼煩わしければ即ち乱る』

ご法門の導入部分にしばしば中国の古典のことばを引用することがあります。

今日は、孔子が編纂したと伝えられている『書経』のなかの、
『礼煩わしければ即ち乱る』という言葉を紹介いたします。
ここでいう「礼」とは、社会秩序を保つための生活規範のことです。
その規範を形に示したものが「儀」で、ふたつを合わせて「礼儀」といいます。
今日では礼儀といえば行儀作法のように思われていますが、
例えば親を敬う、老人を大切にする、そういう敬愛の心が大事で、
それを形に表現することによって心を伝え合い、
社会秩序を保とうというのが孔子の「礼」なのです。
「礼」と「儀」が調和して初めてそこに意味があるんだ、というのが孔子の教えです。

ところが、そういう本来の意味がだんだん薄れると、
心を置き去りにして形式ばかりが独り歩きするようになります。
すると、却って秩序を乱すことになるというのが『礼煩わしければ即ち乱る』なのです。

今日のご法門はその「心」と「形」の関係についてのお話します。
孔子の「礼」は、要するに「心」と「形」が一つになることが大事だと言っているわけですが、
結果的にひとつになるにしても、物事には順序というものがあります。
形を整えると心が育ちます。心が育てば自然と形に現れます。
現れた形がさらに心を育てて、ますます形が整っていく。
この善循環で心と形は次第に本物になっていくのですが、
ではその始まりは「心」なのか「形」なのか。
『鶏が先か、卵が先か』という話ではありませんが、この場合は先ず「形」から始まります。
剣道・柔道・弓道・華道・書道・茶道と、「道」と名のつくもはたくさんありますが、
初心者は、先ず形を整えることを教わります。

そして、一生懸命に形を習うことを通して、その奥にある心が育っていくのです。
目的は心を育てることなのですが、心は形を抜きにしては育つものではありません。
心が育ってくると自然に形に現れてくる。心と形は、ういう関係にあるのです。

このことはご信心の面においても重要です。
ご信心も「仏道」といいます。ですから心と形の関係はまったく同じで、先ず形から入るのです。
具体的には、ご宝前のお祀り、お給仕、お看経の次第や所作などの決め事があります。
あるいはお参詣や各種のご奉公の実践においても形から入るわけですが、
究極を言えばお題目を口に唱えるという、この一点に絞ってすべてが始まります。
ご信心を人にお勧めしたときに「信じられたら、唱えます」と応える人がいますが、
そんなことはまず期待できないこと。
唱えなければご信心は起こらないのです。
よくわからなくても、今は信じられなくても、それでもまずは唱える。
そうやって唱え重ねていって、やがてご信心が育っていき、そうなれば自然に形も整っていく。
細かい作法・決め事などにとらわれなくても、自然と形に現れるようになってくるものです。
これがご信心における心と形の関係なのです。

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浄風会の教え

浄風会は、「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えることで、誰もが意義ある人生を送れると説きます。また、個人の幸せだけでなく社会の平和を目指しています。

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全国に16の支部・地区があり、12箇所に会館があります。
各支部・地区ではそれぞれに婦人会やクラブなどの活動もあり、いずれもご見学いただけます。

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