今月の教え

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2025

お題目とのご縁を結ぶ

お題目のご縁を結ぶ機会は、日常のいろいろなところにあるのですね。

ようやく秋がきたと思ったら、急に寒くなってきました。
皆さま、気温の変化に十分注意して、お身体を大切にしていただきたいと思います。

さて、今年の夏を振り返ると、地球温暖化の影響を受け、世界各地に極端な気象現象が起きました。気候変動による自然災害の増加もそうですが、急速に進む少子高齢化と人口減少は、日本の危機的課題となっています。
経済の低迷や物価。高騰など生活に不安がよぎります。

しかし、こうしてご信者の皆さまと心を結びなが、らお題目をお唱えし、世界の平和、人々の安穏を祈り、御法様と心が結ばれていることを思うと、安心と感謝の心に包まれていきます。

不安定な社会に生きる私たちは、不安定です。だからこそ御法様の揺るぎなく絶え間なく降り注ぐ慈悲と心を結ぶ、 日々のお看経が何よりも重要だと感じます

さて、今日は仕事を通して私が出会えた方についてお話しいたします。私は看護師の仕事をしています。 今年に入り介護施設で働く20代のミャンマー人の女性と出会いました。彼女は特定技能という在留資格をもち、日本の少子高齢化、人口減少に伴う人手不足の深刻な介護職の担い手として働き、日本の高齢者に明るく優しく接してくれています。

入職されて間もない3月28日、ミャンマーに大地震が起きました。家屋の倒壊によりたくさんの方が被害に遭われました。
彼女の家族や家は無事でしたが、母国を心配しながら日本の施設で働く不安気彼女の姿を見て私は「つらいですよね。一緒に祈ります」と声をかけました。

そこからよく会話をするようになり、彼女は覚えたての日本語で、ときにはスマホの写真や翻訳機能を使い、家族のことやミャンマーの内戦の状況、将来の目標などを教えてくれました。

また、ミャンマーの国民の約九割が仏教徒で、彼女も仏像に祈り、毎日瞑想ををしていると話してくれました。私も仏教徒であることを伝え、スマホで浄風会のホームページを見てもらいました。

少子高齢化による問題を抱えた日本人を助けに来てくれた、彼女に感謝しています。

これからも彼女を敬い思いやりをもって、時間をかけて信頼関係を築いていきたいと思います。そして、いつか浄風会のお参詣にお誘いし日蓮聖人の南無妙法蓮華経のお題目を聴いていただき、お題目とのご縁が結べるようご祈願しています。

私たちご信者の「ありがとうございます」のご挨拶は、お題目にお出合いできたことを、お互いに喜びあう意味があります。
日々のお看経を重ねてお題目を唱えることによって心が潤い、安心感や感謝が、生まれるのは御法様の絶え間なく流れる大慈悲と結ばれるからです。
なんと尊くありがたいことでしょう。

『妙法蓮華経』の随喜功徳品には、法華経の教えを聞いて得た感激が次々に伝えられ、最後の五〇番目にそれを聞いた人のほんの微かな喜びでさえ、その功徳はたいへんすばらしいものであると説かれています。 お題目を唱え、教えを聞いて「ありがたい」と思い、ほんのわずかでも心が動いたら、家族や知人に自分の言葉で表現していきましょう。

最後に、日扇大徳のお教歌をご紹介します。
「嬉しさを忘れぬ人ぞ世の中の 人に勧めて法を弘むる」

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2025

個性を大切にしよう

法華経に説かれる「三草二木の譬え」。今を生きる私たちは、この譬えから何を学べばよいのでしょうか。

私は、朝と晩、犬の散歩を日課にしております。ですから、毎日登校中の小学生たちと、すれ違います。多くの子供たちと、
「おはようございます!」そう挨拶を交わすことから1日がスタートいたします。たいへん、気持ちが良いです。

そんな子供たちの後ろ姿を見ていまして、自分の小学生時代、つまり「昭和」という時代の小学生と、「令和」の今の小学生と、大きな違いが1つあるなぁと、感じることがありました。

皆さん、なんだと思われますでしょうか? ヒントは「後ろ姿」です。皆さんの中にも、感じておられる方が居ると思いますが、答えは「ランドセル」です。

私が小学生の時は、「男の子は黒。女の子は赤」でした。皆さん、いかがでしょうか? たまに、クラスに1人くらい、他の色のランドセル、たとえば男であれば「紺色」とか、女の子であれば「ピンク色」というような、そういう違う色のランドセルを背負っている子は居ました。

すると、「なんだ、アイツだけ違うぞ?…」と、何か異質なものを見るような、そういう雰囲気が、あったような記憶があります。

しかし、最近の子供たちを見ていますと、まったく違うなぁと思うんです。本当に、いろいろな色のランドセルを背負っています。
赤、黒という伝統的な色も勿論ですけれども、それ以外にも「茶色」ですとか、「薄紫」ですとか、また「水色」ですとか、とてもカラフルなんです。

そう考えますと、昭和生まれのわれわれとは違って、いまは画一化されていない、一人ひとりの「好み」や「違い」を認め合う、そういう世の中になってきているんだなぁ、そういう印象をもちました。

このような、いろいろなものを認め合うことを多様性というんですね。

英語では「ダイバーシティ」と言います。この言葉も時々耳にします。お互いの違いを認め合える、ダイバーシティを重視した、そういう良い世の中に確実になっている、素晴らしいことだなぁ、そう思いました。

しかし皆さん、この「一人ひとりは皆違うんだ」という、この考えは、じつは法華経の中にもあるんです。皆さん、おわかりでしょうか。
法華経の薬草喩品の、「三草二木の喩え」がそうなんです。

この「三草二木」とは何かといいますと、まず「三草」は三種類の草(大きな草・中くらいの草・小さな草)の三つのことで、「二木」は大きな木と、小さな木(大樹と小樹)のことです。簡単に言いますと、三草二木は「さまざまな植物」という意味です。

世の中には、さまざまな植物があります。それらは皆、雨の恵みを平等に受けます。つまり、恵みとなる「雨」は、大きな木にも、小さな草にも、平等に降り注がれます。

けれども、その雨を受けて育つ三草二木は、それぞれみんな違う大きさになり、それぞれ別の花を咲かせるんだ、そういうことです。

ということは、みんな等しくお釈迦様の教えを受けても、人はそれぞれ資質が異なるので、人々の受け取り方はさまざまで、決して「画一的ではない」、「みんなそれぞれの花を咲かせるんだ」ということなんです。そういうことが法華経に書かれているんです。

「しかし」、なんです。三草二木の喩えの、ここをよく間違える方がいますので、注意が必要です。

つまり、「みんなそれぞれ、資質が違うんだから、それぞれが『バラバラで良いんだ』、『違いがあって、それでいいんだ』、それが三草二木の教えなんだ」、そう考えてはいけないんです。じつは、それだけでは、まだ途中なんです。

どういうことか、その理由を申し上げましょう。

この三草二木の喩えは、いま言いました、「三草二木、みんなそれぞれ違うんだ」という、教えを聞く側それぞれの宗教的素質・能力は違うという面のほかに、もうひとつ大切な点があるんです。

それは、「ではなぜ仏様は、法華経を説かれる前に、様々な教えを説いたのか?」、少し難しくいえば、「なぜ声聞・縁覚・菩薩(これを三乗といいますが)のなぜ三乗という3つの修行者のコースを作ったのか、その理由を明かすことが、この喩えの主旨なんです。

つまり、「三草二木のように、聞く側に、それぞれの性格や能力の違いがあるので、声聞・縁覚・菩薩というそれぞれの修行コースを作ったけれども、しかし、最終的には法華経という一仏乗の教えによって、すべての人々を成仏させるんだ」、そこに、この三草二木の喩えの主題があるんです。

このことを、私たち「信者の視点」で申しあげてみましょう。

私たち浄風会のご信者も、皆さん個性豊かな方が、たくさん居られます。同じ法華経・御題目の教えをいただいていますが、なかには明るい人や楽しい人が居ます。

そうかと思うと、どちらかといえば大人しくて、真面目な人も居ます。また、お酒が好きな人も居れば、下戸の人も居る。
いま申し上げましたのは一例ですが、いろいろな方が居ます。

そういう、いろいろな人たちで構成されているのが浄風会という教団です。
ですから信心の深い方も居れば、まだ初心の方もいる。教学に詳しい方も居れば、よくわからないという方も居ます。

このように、それぞれに違いがあっても、「それぞれが、このお題目を弘める浄風会の仲間であり、そして最終的には誰一人、漏れることなく、全員がこのお題目で救われるんだ」、そういう点で皆が1つになる。そこが大事なんです。
それがなければ、バラバラの人が集まった、なんかの同好会で終わってしまうんです。

ある方が、昔、私にこういう話をしてくれたことがあります。
「腕時計というものは、1つの中に数百の歯車が関わり合って1つのメカ・機械として機能している。もしその歯車の1つでも不備が生じれば、時計全体が止まってしまうんだよ」、そう教えてくれました。

この話を私たちに喩えるならば、大きい歯車の方も居れば、小さい歯車の方も居ます。しかし、すべての歯車が、それぞれの役割を担って、浄風会という教団を動かしている。誰一人として欠けてはいけない仲間なんだ、ということになるかと思います。

この浄風会という素晴らしい教団も、ご信者一人ひとり皆、個性があり、性格も違います。

「あの人は何々だからダメ」とか、「あの人は私と性格が合わないからダメ」といったような、そういう好き嫌いはいったん置いておいて、「全員が素晴らしいお題目に包まれているご信者同士なんだ、仲間なんだ」、その一点で、一つになっていくことが大切と思います。

一人ひとりの個性を大切にしながら、同時に全体として力を十分発揮できる、そういう理想的な教団を目指して、これからもお互い様に、努力をしてまいりましょう。

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2025

八品所顕とは

私たちがいつもお唱えしているお題目。そこに込められた深い意味を知っておきましょう。

私たちは、ふだんはあまり物事を深く考えずに生きています。

ですから突然人から何か質問されると、なかなか答えることが難しい。そういうことはよくあります

例えば、こういう質問です。

「私たちがお題目をお唱えするときに『本門八品所顕上行所伝本因下種の』という長い一文を入れてお唱えしますよね『なんで?』」
(※NHK番組のチコちゃん風に聞いてみました。では、答えをチコちゃん風に言います)。

「私たちが『本門八品所顕上行所伝本因下種の』という長い一文を付けるのは(一息おく……)、
『奈良の奈良漬け』と同じだからぁ……」。

おわかりでしょうか?解説をいたします。

奈良漬けは、もともと奈良でできた物ですが、京都や大阪でも作られるようになりました。
それで、正当性を訴えるために「奈良の奈良漬け」という言い方ができました。

それと同じで、私たちのお唱えする南無妙法蓮華経は「他の門流のお題目とは違う」
ということを明らかにするために、長い一文をあえて入れて、お題目をお唱えしているのです。

では、「本門八品所顕」とは、どういうことでしょうか。
「本門八品」とは、法華経の「従地涌出品第十五」から「嘱累品第二十二」までの八章です。

ここには、「上行付嘱」が説かれています。「上行」とは「上行菩薩」のことです。
お釈迦様は、五百塵点劫という、「久遠」と呼ばれる遠い過去、まだ仏様になる前に、
菩薩として「南無妙法蓮華経」の修行をされていました。
そのときの最初のお弟子が上行菩薩です。

この上行菩薩をはじめとする人たちは、久遠の昔からずっと退転せずにお題目を修行しています。
この弟子たちを、「本化の菩薩」「地涌の菩薩」といいます。
この本化の菩薩たちは、法華経の本門八品だけにしか登場しません。

そして、その法華経の本門八品には、こういうことが説かれています。

・仏さまが亡くなられて、二千年が経過すると、「末法」という大変な時代に突入する。「その末法の人々」を救うには
普通の教えではダメで、特別な教えしか効力を発揮しない。その特別な教えが、「南無妙法蓮華経」のお題目である。

・末法にお題目を弘めることはとても大変なことで、誰でもできるものではない。
その特別な使命を、上行菩薩をはじめとする本化の菩薩たちにお授けになった。これが「上行付嘱」である。

このことは、御聖人の一番重要な御書『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』に書かれています。

  この本門の肝心・南無妙法蓮華経の五字においては、
  仏なお文殊・薬王等にこれを付嘱し給わず。
  いかに況やその已下をや。
  但だ地通千界を召して、八品を説いてこれを付属し給えり

今後、お子さんやお孫さんから、「なんでお題目をお唱えするときに、わざわざ『本門八品所顕上行
所伝』ってつけてお唱えするの?」と聞かれたら、ぜひこう答えてください。

「それはね……、私たちのお唱えするお題目は、御聖人が仰っているとおりのお題目なんだ、そのことを
ハッキリさせるために、お読み上げをしているんだよ。まぁ、一緒にお題目をお唱えしていけば、
いずれわかるよ。頑張ってやっていこう!」と。

お互い様に自信をもって、この本門八品のお題目のご信心に励んでまいりましょう。

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2025

病の良薬

病になったご信者への日蓮御聖人の励ましのおことばを受け止めよう

今回は病気の話です。皆さんの中にも、現在病気を抱えている方も少なくないでしょう。

日蓮御聖人の檀家に、太田乗明という人がいました。
ある時この人が御聖人に宛て、重病に罹り苦しんでいます、という内容の手紙を書きました。そのご返事が『太田入道殿御返事』という御書として残っています。

この中で御聖人は、天台大師が書かれた「摩訶止観」にある「病の起る因縁を明すに六あり」という言葉を引用して、ご法門をされています。

人が病気になる六つの原因とは、「①四大順ならざる故、②飲食節ならざる故、③坐禅調わざる故、④鬼便りを得る、⑤魔の所為、⑥業の起こるが故」と挙げています。

現代のことばで分かりやすく言い換えれば「①天候不順、②暴飲暴食、③不摂生、④ストレス、⑤過度の欲望、⑥過去世に自分が作った業」となります。そして、御聖人はこの中の六番目が最も厄介な原因だと述べられています。

昨今は相変わらず健康ブームが続いていて、テレビのCMでも、健康器具、健康食品、サプリメント等々、そんなのばかりが目に付きます。しかし、何か大事なところが抜け落ちているように感じます。
確かに健康は大事ですが、健康ならば幸せかと言うと必ずしもそうではありません。健康は目的ではなく、健康で何をするかが大事なので、そこのところを勘違いしてはいけません。

それはさて置き、御聖人の御法門の大切なのはここからです。
病の原因が六つあると言っても、問題は六番目の業が引き起こす病で、これは簡単には治るものではありません。中でも最悪なのは、御題目のご信心を誹謗したという業による病なのです、と説いておられます。

下総中山の太田乗明といえば、堅信で名高い信者でした。そういう人でも目に見えない過去の謗法罪を背負っていて、その治し難い業病は、ただ法華経の信心で治すしか道はないのです。

いまの病気の苦しみは、じつは過去の業が原因で、それをご信心で清算しているからです。これを「転重軽受」といいます。しかも、この法華経は「閻浮提の人の病の良薬」(薬王品)だから、必ず治って更に寿命を延ばすことができるでしょう、と諭しておられます。

どんなに気を付けていても、一生涯無病息災でいられる方はいないでしょう。必ず病気に罹る時が来ます。そこで大事なことは、それをどう受け止めるかということです。

御書の冒頭で御聖人は「お手紙を拝見して、一度はお気の毒にと思った。しかし、病気があるからこそ信心が固まる。そう考えれば何と喜ばしいことか」と仰っています。

これは決して他人事ではありません。現在病気と闘っている人はもちろん、健康自慢の人だって、いつか必ず病気に罹る時が来ます。そんな時この教えを思い出して、自分自身に向けられた御聖人の励ましのお言葉と受け止めて、病を乗り越えていただきたいと思います。

8

2025

言葉は心を変化させる

人は言葉によって癒され、元気づけられるもの。言葉の大切さを見直してみましょう。

ちょっと前になりますが、ご信者のFさんからこんな話を聞いたことがありました。

Fさんは、穏やかで口数の少ない、いつも静かに笑っているといったタイプで、この人は怒ったことがあるんだろうかと思うような人です。
「人(にん)、相に表れる」とよく言われますが、その人の人間性は自然に姿・形に現れる、ということです。

で、Fさんは毎日通勤する時に、駅に向かう途中にパチンコ屋さんの前を通るのですが、いつもその時間にお店の前を掃いている男の人がいました。
いかにも不愛想な感じの人でしたが、Fさんはいつも「おはようございます」と声をかけて通り過ぎていました。

しかしその男の人からは何の返事もあいさつもありませんでした。けれども、Fさんは出合う度に「おはようございます」と声をかけて通りすぎていました。
ある日、例によってFさんがお店の前に通りがかって、箒を持ったその人と目があった。すると、その時彼のほうから「おはようございます」とあいさつをしてきたということでした。
Fさんは、そのことをいつものように微笑みながら、遠慮がちに語ってくれたのでした。

これは世間にはままあることで、不思議ではありません。
が、このお話は声をかける・言葉をかけることの大切さを教えてくれています。言葉を声に出すと、人の心は変化するのです。

相手の方を思って、「幸せにしたい」「お教化したい」と切に願って言葉にすれば、それは祈りになり、「南無妙法蓮華経」という声を耳に聞けば、お題目に縁が結ばれるのです。
私も若い頃は、(信じていないのに、お唱えしても効果あるのだろうか……)などと思ったものでした。

しかし、「声、仏事をなす」というご指南があります。この「声」とはお題目、「仏事」とは仏さまの慈悲のはたらきのことです。
お題目自身に、心にはたらきかけ導いていく力があるのです(これを「法体の折伏」といいます)。

また、法華経(方便品)には「もし法を聞くことあらん者は一(ひとり)として成仏せずということなし」とあります。
考えてみれば、そういう素晴らしい教えを持っている人生は、ステキじゃないですか。ありがたいじゃないですか。

日蓮御聖人はこうおっしゃっています。
「衆生の心穢(けが)るれば土(ど)も穢れ、心清ければ土も清しとて、浄土と云(い)ひ穢土(えど)と云ふも土に二つの隔(へだ)てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」(一生成仏抄)。

根本善のお題目をお唱えして、心に仏さまの慈悲の種が植えられ、心が豊かになってこそ、人生も、社会も、世界も、真の幸福や平和が実現していくのです。
そのようにご感得いただきまして、日々のご信行に励んでまいりましょう。 合掌

7

2025

悲しみや困難もプラスに

大切な人をなくしたとき、あなたの支えになるものは何ですか

私事ですが、亡くなった主人についてお話させていただきます。

私が主人と出会ったのは、私がご信心から離れていた時期でした。
そして、私が再びご信心をするようになった際も、私が信心をするのはよいが、自分には勧めないでほしいと言っていました。

そんななか、主人にガンが見つかりました。
すい臓ガンで肝臓などにも転移していたので、主人は手術を望みましたが、手術をすることはできず、抗ガン剤治療で経過をみていました。
病気が見つかって以来、御法様のご加護を頂きたく、入信を勧めましたが、公務員という立場もあって、なかなか承諾してもらえませんでした。

その間、横浜地区の地区長さんをはじめ、ご信者の皆さんには、ご祈願をあげて頂いたり、主人が本部参詣の際には大変良くして頂きました。
その甲斐あってか、亡くなる2カ月くらい前に、病室で「ご信心をしない?」と聴くと、「うん」とうなずいてくれました。

そして、1年8カ月の闘病後、残念ながら亡くなりました。
難しい病気でしたので結果は覚悟していましたが、主人が亡くなってしばらくは食事も喉を通らず、仕事にも行くことができませんでした。
しかし、仕事を休めば、誰かが私の分をやらなければなりません。
何より、主人がいない分、子どもたちのために頑張らなければと思い、1カ月足らずで仕事に復帰。本部にも4カ月後にはお参詣できるようになりました。

今思いますと、病気宣告の際「余命6カ月」と言われていたのに、1年8カ月の時間を頂きました。
病気を考えると、苦しんだりひどくやせたりすることもある筈でしたが、そのような症状は一切ありませんでした。
これは、短い間でしたが、本当に御法様のお護りを頂いたからだと思います。

法華経の最終章「普賢品」に、4つのご利益・心構えが説かれています。
第一に、仏さまのご加護をいただく。
第二に、教えに従い人格が向上する。
第三に、善い仲間に出会える。
第四に、周りの人を助けたい、幸せにしたいという仏さまの慈悲の心を持てる。

ご奉公をさせて頂きながら、このことを日々に実感しながら心がけ努力しています。

日蓮御聖人は『妙心尼御前御返事』というお手紙に、
「病ある人は、仏に成る」という経文を引いて「人は病気になったとき、信仰を求める心が湧き起こるものだ」とおっしゃっています。
本当にこの御文の通りだなと思います。
 
大切な人の病気や死は、とてもつらいことです。
主人を亡くしたことは、時間をかけて心の痛みをやわらげたいと思い、前向きにご信心を続け人生を歩んでいきたいと思います。
悲しい中にも、主人をお題目で送れたことは、何よりの安堵です。自分自身のご信心の随喜にも似た思いです。
私もいつか、同じお題目で送って頂けると思えば、来世の旅へ安心して向かえます。
人生の困難や悲しみも、それをプラスにしていくご信心をこれからも続けていこうと思います。

お互い様に、困った時、苦しい時は、助け合い励まし合って、ご信心に励んでいきましょう。  

6

2025

御法第一の選択を生きる

人生は選択の連続です。そのときに私たちは、どう考え行動すべきでしょうか。

アラームを止めて起きるかもう五分寝るか。今日の服をどうするか。自分の意見を言うか黙っておくか。今日洗濯をやるか明日にまわすか。先にお風呂に入るか寝る前に入るか。パートナーに謝るべきか傷ついたままでいるか。etc、etc……。

シェイクスピアが「人生は選択の連続である」といったとおり、私たちは毎日数え切れないほどの選択をくりかえしています。一説によれば、私たちが一日にする選択の数は、三万五千回ともいわれています。

ほとんど無意識下でしている選択もあれば、決断ともいえるような重大な選択もあります。こうした選択の数々によって、私たちは人生の行き先を定めています。自分の人生がどう彩られるか、それは毎日の選択の積み重ねの結果ともいえるでしょう。

また、私たち信者は、ご信心における選択をする機会もあります。ちなみにですが、私がご信心の選択をするときに心がけていることを、ご紹介いたします。

まずは、お看経やお題目口唱をしてから考えることです。選択を迫られているときは、往々にして頭のなかや心が混沌とした状態にあります。ですから、まずはお題目をお唱えして、心を良い状態にしてから、よく考えるように心掛けています。また、お看経をしていると、それまで思いもよらなかった選択肢を、ふと思いつくことが多くあります。

また、大事な決断をするときには、日蓮聖人のご生涯を想起することがあります。御聖人のご生涯の重大な選択に、立教開宗時のご決断があります。

『開目抄』に、

「日本国に此れをしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに……」

と著されているように、御聖人は、末法の衆生を救済できるのは南無妙法蓮華経のお題目だけだ、ということを覚知されました。

しかし、このことを言えば、法華経の経文にあるとおり、自分だけでなく父母や兄弟、また師匠等にもさまざまな迫害が襲い掛かるだろう。けれども、このことを知りながら言わなければ、それは人々を見捨てることとなり、慈悲の心に背くことになる、という究極の決断を迫られました。

そして、御聖人は前者を選択され、その結果数々の迫害をその身に受けつつ、お題目弘通のご生涯を歩まれたことは、皆さまご承知のとおりです。

この御聖人のご生涯から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

それは、ご信心における選択や決断で大切なことは、たとえどんなに過酷で困難な道であったとしても、御法のため、ご信者のため、人々の幸せのための選択をする、ということです。

いかに困難な道であったとしても、その道が御法を第一に考えたものであれば、必ず諸天のお計らいをいただき、物事は必ず良い方向に向かいます。

逆にどんなに安易な道であっても、その選択が御法第一ではなく、我が身可愛さの選択であったとしたら、それは決して良い結果を生みません。これがご信心における選択の理なのです。

『法華経』に「我不愛身命但惜無上道」(我身命を愛せず、但無上道を惜しむ)と説かれているように、お互いに御法第一の選択を心掛けて、有意義な人生を送ってまいりましょう。

5

2025

八風吹けども動ぜず

信者として生きるとき「変えるべきもの」と「変えてはいけないもの」とは

最近、私は寝る前の楽しみがあります。それはスマホでいろいろな動画を見るということです。あっという間に、30分、1時間が過ぎてしまいます。

特に昔のものを見ると懐かしいんですね。お笑いですとか、プロレス、ボクシング、相撲、歌番組等々、いろいろなものが見れるんです。
先日、見ているうちに大笑いしてしまったコントがありました。「コント・レオナルド」というコンビのお笑いなんです。
もう亡くなってしまいましたが、レオナルド熊さんのトボケ振りがとても面白いんです。次のような話です。

車を運転していた熊さんが、警官に呼び止められるんです。

「お前いま、赤信号なのに渡ったな?」それに対して、
「そりゃしょうがないでしょ、飛ばしてたんだから……」スピード違反もしていたんですね。
「ここは一般道だぞ。制限速度を守らなくちゃだめじゃないか」という叱責に対して、
「だってウトウトしちゃったんだから、ちょっと見忘れただけですよ」なんと居眠り運転もしていた。
「お前、居眠り運転していたのか!」そう警官がたしなめると、
「だってさっき一杯やったんで、ちょっと眠くなっただけだよ」なんと飲酒運転までしていた。
あきれた警官が、最後にこう言うんですね。
「しかし、お前みたいな奴がよく運転免許取れたよな」それに対して、
「免許なんて持っていないよ……」、そういうオチで終わる話なんです。

面白い話ですよね。最初に出てきた「信号無視、スピード違反、居眠り運転、飲酒運転」は、
少なくとも「免許は持っている。それなのになんでそんな違反をしたんだ」、そういう前提で警官は話しているわけです。
それが最後になって、そもそも免許自体持っていない、そういうことで、いままでの前提が覆されてしまう。だから面白いんですね。

前提が覆される、これは法華経もそうですね。法華経を説かれる前に、
お釈迦様は「二乗は仏に成ることはできない」そう仰っていました。
二乗というのは、阿羅漢果という悟りを得るために修行する人たちで、
簡単に言えば、「自分だけが救われればいい」、ちょっとエゴイスト的な修行者です。
舎利弗・目連・迦葉・阿難といった人たちです。

お釈迦様は今まで、こういう人たちは仏に成れないと言っていたのに、法華経のご説法の場では、
「こういう人たちも仏に成れる」、そう仰る。
「いままで説かれていたことと全然違うじゃないか!」、そこから法華経が語られていくんです。

本日は勉強会ではありませんので、法華経の細かな話は致しません。
ただ、この「前提が覆る」ということで考えますと、じつは私たちの身の回りも、
いろいろと事例はあります。ちょっとそのことを申し上げたいと思います。

私は社会人になりまして40年以上経過しましたが、昔と今では、違うことがたくさんあります。

たとえば、「会社での女性の仕事」です。
私が社会人になりました頃は、10時と3時になりますと、お茶の時間がありましたが、だいたい女性が当番でお茶を入れていました。
あとタバコですね。あの頃は、さすがに製造現場でタバコを吸いながら仕事をしてる人は居ませんでしたが、
事務職の人はだいたいオフィスでタバコを吸いながら仕事をしている。そういう人がたくさん居ました。
その灰皿の片付けも、私の職場では女性がしていました。

また昔は「女性は遅くまで残業してはいけない」、そういうルールがありました。
遅くまで働いていますと、「なぜそんな時間まで働かせてるんだ」と、管理職の方が叱られていました。

つまり昔は、「女性は守られるべき存在」、「難しい大変な仕事は男がやるべきなんだ」、そういう前提があったんですね。

ところが、いまはそういう前提はなくなりつつあります。女性は「守られるべき存在」というよりは、
「男女の違いを認め合いながら、その中で出来るだけ平等に扱わられるべきである」、そういう風に変わってまいりました。

私は良いことだと思っています。ただ私も昭和の人間ですので、会社の中でも、つい昔流の考え方に沿った発言をしてしまい、
あとで叱られるということを、何度か経験しております。昭和の方は要注意だと思います。

ではご信心の世界はどうでしょうか。結論をいえば、「変えるべきもの」は当然変えるべきです。
浄風会の先輩たちは、この御法を弘めるために、本当に努力をされてきました。
しかし、先輩たちが活躍されました昭和・平成という時代は過ぎて、いまは令和という時代になりました。
御弘通という視点から、いまの時代にそぐわないと思えるものがあれば、その時は勇気を出して変えていくことが必要です。
また、「変えてはいけないもの」「変えてはいけない前提」もあります。
それは「この御法を、人に弘めていくんだ、そういう心を常にもつ」ということです。
もうひとつは、「この御法を、死ぬまでお持ちし続けること」、この2つです。
これを忘れたら、本化仏教の信者ではない、そういうことになる、それくらい大切なことなんです。

1つ目の「人に弘めていくという心を常にもつ」ですが、
南無妙法蓮華経の種を社会に蒔いて、縁を結んでいくこと。それが社会を浄化することです。
なかなか宗教に対して心を開かない、そういう時代です。やはり根気よく、お伝えしていく。お教化がなるかどうか、その結果ではなく、種を蒔くという、その活動が尊いんですね。

もう1つは、「生涯にわたってお持ちし続ける」ことですが、これも簡単ではないんです。
「此経難持」という言葉が法華経の宝塔品にあります。「此の経は持ち難し」、と読みます。御題目をお持ちし続けることは、簡単にはできないんだ、そういうことです。

最後になりますが、私たちは凡夫であり、今生でお題目にお出会いした信者ではありますが、しかし、もう一つの面もあるということなんです。
それは、先ほどのお話で申し上げましたが、もしかしたら、私たちは遥かな過去からお題目を修行している本化の菩薩の一類であって、この度、御聖人のご命令でこの世に誕生し、日々を生きている。そういう者たちかもしれません。

であれば、どういう生き方をしなくてはならないか、決まってきます。

 *このお題目を、生きている限りお持ちし、
 *毎日のお題目口唱を怠らず、(上求菩提)
 *常に人に弘めるという気持ちを忘れない(下化衆生)。

そのような「本化の菩薩」としての自覚をもって、有意義な日々を送っていけたらと思います。
どうか皆さん、お互い様に頑張ってまいりましょう。ありがとうございます。

4

2025

今生の小苦

辛いことが起こったとき、御聖人の生き方に学ぶ

私は毎朝、仕事を始める前に、犬を連れて散歩をしています。朝の7時半ごろに家を出て、近所の公園のまわりを20分くらい歩きます。2月のこの時期はちょうどそのころ、太陽の光が公園に射し込みます。冬の朝の陽の光、本当に気持ちがいいです。

この陽の光は、誰にでも平等に降り注いでいます。「まるで日蓮聖人のようだなあ……」と思います。

御聖人の「日蓮」というお名前は、お日様と蓮華からきています。太陽の光が、すべての人に降り注いでいるのと同じような、また汚れた水のなかでも、そこに蓮華の花があるだけでまわり全体がきれいになるような、そういうお方が御聖人です。

そして私たちの抱えているさまざまな問題、たとえば、私たちが過去世で積んだ罪障など、そういうものをすべて消滅してくださるありがたい御法は、御聖人が伝えてくださった南無妙法蓮華経のお題目です。

さて、その御聖人は「大難四ヶ度・小難数を知らず」というご苦難のなかでご弘通をされてまいりました。そのなかでも最大のピンチは、次の二つだと私は思っています。

一つ目は、文永8年9月12日、竜ノ口で首を斬られそうになったこと。二つ目はその直後、佐渡流罪によって極寒の生活を余儀なくされたことです。

佐渡の2月、想像を絶する寒さです。降り積もる雪のなかで、わずかな食べ物しかない極限状態に追い込まれましたが、そのなかで御聖人は『開目抄』という大論文を書き上げられます。

その『開目抄』に、こう書かれてあります。

「法華経の行者であれば、現世は安息であるはずではないか。それが、こんなに迫害にばかり通っている。本当に私・日蓮は、法華経の行者といえるのであろうか?」
「わが身、法華経の行者にあらざるか」――こういう問いが何度も出てきます。

その問いに対して御聖人は、同じ『開目抄」でこう結論づけをされています。
「確かに自分は迫害に遭っている。しかし、法華経には、「三類の強敵が必ず出現して、法華経の行者を苦しめる」とも説かれている。現に今、日蓮は三類の強敵の責め苦に遭っている。この日蓮以外に、法華経の故に刀で切りつけられ、そして「数数見檳出」と、複数回にわたって島流しにされた者は、他に誰もいないではないか!」

佐渡への流罪が無かったなら、御聖人は法華経に予言されている「法華経の行者」にはならなかった。佐渡流罪あってこその御聖人であり、であるからこそ、本化上行菩薩が人間界にお生まれになったお方が、わが日蓮聖人です。

『開目抄』は、次のお言葉で結ばれています。

「日蓮が流罪は、今生の小苦なれば、なげかしからず。後生には、大楽を受くべければ、大いに悦ばし」

佐渡流罪は「今生の小苦」だと仰っています。

佐渡流罪という、想像を絶するようなお辛い日々が「今生の小苦」なら、御聖人に列なる私たち信者は、日常の小さなことでクヨクヨしていてはダメです。御聖人に叱られます。

生きていればいろいろと悩みは尽きませんが、辛いことがあったときは、どうかこの「今生の小苦」という言葉を思い出して、勇気と希望をもって、御聖人に褒められるような、そういう生き方をお互いに実践してまいりましょう。

3

2025

感謝と反省が前向きな人生を開く

自分の限られた視野を越えるとは

仏教には「随喜」と「懺悔」という教えがあります。言葉としては聞いたことがあると思います。随喜とは法(教え)を聞いて心に大きな喜びを感じること、また懺悔とは自ら犯した罪を仏・菩薩に告白して許しを請うことです。
この2つは、私たちが信仰生活を送るうえでとても大切なことです。

これをふだん私たちが使っている普通の言葉に置き換えてみると、必ずしも正確ではありませんが、随喜は「感謝」に、懺悔は「反省」に、それぞれ当てはめることができると思います。感謝と反省、これならば特別の説明はいりません。そしてまた、これはなにも信仰生活に限ったことでもありません。感謝も反省も、人間が人間らしく生きていくうえで、やはり欠くことのできない大事なことなのです。

ですから私たちは、日常生活を営むうえで、信仰者としてはもちろんのこと、一社会人としてもよりいっそうこの教えを意識していなければならないでしょう。

さて、感謝と反省が大切だといっても、もちろんそれには心がこもっていなければなりません。ただ形だけで「ありがとうございます」「申しわけありません」というのでは、ほとんど無意味であります。みなさんの日常はいかがですか。案外形だけで終わっているケースが多いのではないでしょうか。では心をこめるということはどういうことなのでしょうか。

心をこめた反省というものには、「もう失敗はすまい」「二度と過ちは繰り返すまい」という、将来へ向けた誓いを伴わなければなりません。そこになにがしかの進歩が見られるはずです。

感謝も同じです。本当に感謝したのなら、なんらかの形に、行動に、それが表れてこなければなりません。 私たちが信仰を持つうえで、もちろん人間らしく生きるためにも、この「感謝」と「反省」の二つが大切だというのはそこのところなのです。

信仰を持つことによって、感謝と反省を基本とした日々を過ごすことによって、私たち自身の生き方が毎日毎日変化していくのです。これこそ私たちの信仰の目的であり、また大きな効果でもあるのです。

ここまでの話は、ごく常識的な話ですので、どなたにもご理解いただけると思います。しかし、最初にお示しした随喜と懺悔という教えの言葉は、実はそれだけのことではありません。随喜も懺悔も、もっともっと深い意味があるのです。ただ私たちのふだん使っている感謝と反省という言葉に置き換えるだけでは、始めに「正確さを欠く」とことわりを添えたように、不充分なのです。

では、何が常識的でないのか、深い意味とはどういうことなのか、ということになります。

それは、随喜も懺悔も、無限の時間、無限の空間の中でとらえることだというのです。そういうとらえ方の中での感謝であり反省である、ということなのです。

みなさん、自分自身の存在というものをちょっと考えてみてください。自分というものは、自分の「視野」の中のみ存在しているのです。ここでいう「視野」とは、言うまでもなく、視覚の範囲ということではありません。時間的にも空間的にも、自分が体験や学習等によって認識できる世界、その範囲のことです。

たとえば、「私」は△年△月△日に△△で生まれて、父は△△、母は△△。△歳で△△大学を卒業して△△ 会社に入社し、△歳で△△と結婚して、……。あるいは、どういう本を読んで、どんな映画を観て、どこへ旅行して……。誰と知りあって、どんな影響を受けて……。

このように、自分が生まれてから今日までの見たり聞いたり経験してきたさまざまな知識、あるいはそこからめぐらす未知への想像、その「視野」が自分の世界なのです。そして当然、その視野は直接体験したことや身近な事柄ほど鮮明なものです。そういう視野の中に存在している自分にとって、視野の外というものは一切ありません。もし視野の外を認識しているとしたら、それは外ではなくて、すでに視野の内なのです。

少しややこしい話ですが、つまり人間は自分の「限られた小さな世界」の中で生きている、ということなのです。

ですから、私たちが感謝したり反省したりするというときも、その「限られた小さな世界」の中で、特にこういうものは視野の中でもごく身近な事柄に限定されるわけです。自分に親切にしてくれた人、何かくれた人に感謝する。あるいは自分を生み育ててくれた両親に感謝する。また、自分の犯した罪を反省する、失敗を反省する、等々。これが普通私たちのできる感謝であり、反省なのです。

ところが、仏様の教えは、そんな小さな自分の「視野」などというものに、とらわれてはいません。もっともっと大きな、無限の時間、無限の空間に根ざした教えなのです。「自分というものは、そういう無限の時間、無限の空間の中に存在するのだ」、仏様はそう説くのです。自分の限られた小さな「視野」を超越して、すべての生物、すべての人々、すべての自然に対して感謝をしなさい。無限の過去から犯しつづけてきた自分の罪に対して謙虚に反省しなさい。「随喜と懺悔」とはそういう教えなのです。

「聞いたこともない会ったこともない人に感謝しろといわれても、いったい何を感謝すればいいんだ」
「生まれる前のことなんか自分にはまったく自覚がないし、だいいち、前世なんて本当にあるのかどうかも分からない。そんな過去の身に覚えのないことを、どうして反省しなければならないんだ」

私たちには、自分をそんな大きな存在だとしてとらえることはできません。そう教えられてもなかなかそんなふうには思えないものです。そこに覚者といわれる仏様と、限られた小さな世界しか自覚できない私たち人間との大きなギャップがあるのです。このギャップを埋めない限り、私たちには本当の意味での感謝も反省もできないのです。

仏様の教えは、私たちの常識、つまり自分の限られた小さな「視野」の中での常識を遥かに越えたところの教えなのです。そして、仏様のその大きな大きな教えをそのまま受けとめる素直な心だけが、このギャップを埋めることができるのです。

その素直な心、これを「信心」と言うのです。

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