2月
2025年
罪障消滅と菩薩行
二、三日前の新聞にこんな記事がありました。東京都三鷹市の小学校四年生の男の子の短い詩です。
題は『ずっといる』……です。
ぼくはかえらないよ
いばらきにずっといる
いばらきに五千泊する
(三鷹市第六小学校四年生)
詩の「評」の欄に、「茨城県のおばあちゃん家で、「五千泊」すると、帰る頃には大人になってますね」とありました。(読売R7、1/29)
ほほえましい詩ですが、少年にとって自然とともに生きているおばあちゃんの生き方や生活は、都会の生き方や生活とはまったく違った魅力的な世界だったのでしょう。
お父さんやお母さんにとっても、たとえひと時ではあっても日常生活とは違う時間の流れるなつかしい世界だったのかも知れません。自然と愛情のなかで子どもがイキイキと遊び、おばあちゃんと会話し、いろんなものに興味をもち発見し体験するわが子を見るのは、自分の子どものころを思い出して、親も嬉しいのではないでしょうか。ふるさと……そこには人間が人間らしく生きる、ゆったりとした時の流れがあります。
目まぐるしく移り変わっていく現代生活で、人は毎日ストレスを強いられ、忙しく数字に追われ、結果や成果に追われて心身を擦り減らしていきます。しかし、家族を養っていかなくてはなりません。社会を渡っていくのは大変です。いつアクシデントやトラブルがあるかわかりません。
そういう今の社会に生きていく人生で、「気やすめ」や「縁起かつぎ」でなく、あたたかい家庭・嵐がきてももちこたえられる家族を創っていくための 「人生の柱」や「こころのオアシス」が、本当は必要なのではないでしょうか。本当は神仏のご加護がなければ到底安心して暮らしてはいけない毎日なのではないでしょうか。
それに、家庭生活や社会生活を前提にして、それぞれの個性を生かしながら家族やご信者同士が利害損得を離れて交流できる、共通の場や時間が必要になってきます。そこに「在家信行」「在家教団」の社会的必要性があります。
私たちご信者は毎日お題目をお唱えしていますが、「南無」というのは「帰依します」つまり「深く信じます」という意味です。そして「南無妙法蓮華経」とは、「妙法蓮華経に説かれた仏さまの真理に帰依します」ということです。
もちろん、ご信心をいただいたからといって、よいことばかりではありません。雨の日もあれば風の日もあります。しかし、帰依するものがあれば、受けとめ方が違ってくる。受けとめ方が違えば見えてくる世界が違い、やがてその人の世界が変わってくるのです。
自覚しようとしまいと人は皆、無始以来の過去世の罪障を持って生まれてきます。罪障はその人それぞれの形で現れますが、その時「信心してるのに、なぜ」と思いがちです。しかしその時が、誰彼の間題ではなく、自分自身の罪障消滅の問題であり、信心決定の時なのです。やがて雨風がやんでまぶしい青空が広がっていきます。日真大徳のお教歌に、
「根は浄土 枝葉は娑婆の菩薩行 雨降らば降れ風かけば吹け」
新年を迎えて、新たな気持ちで今年も菩薩行のご信心に励んでまいりましょう。
合掌
1月
2025年
ご信心における心と形の関係
『礼煩わしければ即ち乱る』
ご法門の導入部分にしばしば中国の古典のことばを引用することがあります。
今日は、孔子が編纂したと伝えられている『書経』のなかの、
『礼煩わしければ即ち乱る』という言葉を紹介いたします。
ここでいう「礼」とは、社会秩序を保つための生活規範のことです。
その規範を形に示したものが「儀」で、ふたつを合わせて「礼儀」といいます。
今日では礼儀といえば行儀作法のように思われていますが、
例えば親を敬う、老人を大切にする、そういう敬愛の心が大事で、
それを形に表現することによって心を伝え合い、
社会秩序を保とうというのが孔子の「礼」なのです。
「礼」と「儀」が調和して初めてそこに意味があるんだ、というのが孔子の教えです。
ところが、そういう本来の意味がだんだん薄れると、
心を置き去りにして形式ばかりが独り歩きするようになります。
すると、却って秩序を乱すことになるというのが『礼煩わしければ即ち乱る』なのです。
今日のご法門はその「心」と「形」の関係についてのお話します。
孔子の「礼」は、要するに「心」と「形」が一つになることが大事だと言っているわけですが、
結果的にひとつになるにしても、物事には順序というものがあります。
形を整えると心が育ちます。心が育てば自然と形に現れます。
現れた形がさらに心を育てて、ますます形が整っていく。
この善循環で心と形は次第に本物になっていくのですが、
ではその始まりは「心」なのか「形」なのか。
『鶏が先か、卵が先か』という話ではありませんが、この場合は先ず「形」から始まります。
剣道・柔道・弓道・華道・書道・茶道と、「道」と名のつくもはたくさんありますが、
初心者は、先ず形を整えることを教わります。
そして、一生懸命に形を習うことを通して、その奥にある心が育っていくのです。
目的は心を育てることなのですが、心は形を抜きにしては育つものではありません。
心が育ってくると自然に形に現れてくる。心と形は、ういう関係にあるのです。
このことはご信心の面においても重要です。
ご信心も「仏道」といいます。ですから心と形の関係はまったく同じで、先ず形から入るのです。
具体的には、ご宝前のお祀り、お給仕、お看経の次第や所作などの決め事があります。
あるいはお参詣や各種のご奉公の実践においても形から入るわけですが、
究極を言えばお題目を口に唱えるという、この一点に絞ってすべてが始まります。
ご信心を人にお勧めしたときに「信じられたら、唱えます」と応える人がいますが、
そんなことはまず期待できないこと。
唱えなければご信心は起こらないのです。
よくわからなくても、今は信じられなくても、それでもまずは唱える。
そうやって唱え重ねていって、やがてご信心が育っていき、そうなれば自然に形も整っていく。
細かい作法・決め事などにとらわれなくても、自然と形に現れるようになってくるものです。
これがご信心における心と形の関係なのです。