7月
2026年
試練は、それを乗り越えるべき人、乗り越え得る人にのみ訪れる
人生に試練は必ず訪れます。そのときに私たちはどのような心持ちでいるべきでしょうか。
ご信心の動機は色々ありますが、家族の健康・幸せを祈るというのは、万人に共通する大きな動機の一つでしょう。いわゆる現世安穏です。
そうは言っても、現実は必ずしも安穏な日々が続くとは限りません。ご信者と言えども、悩みの一つや二つは抱えていることでしょう。
また困難・試練に見舞われることも珍しいことではありません。皆さんも、何かしら困難・試練を経験したことがあろうかと思います。
あるいはは現在進行形の人もいるかもしれません。
例えば、大怪我をする、大病を患う。厄介な問題を抱え込む、面倒なことに巻き込まれる等々。そういう時、それらの困難 をどう受け止めてどう乗り越えていくか、信者としての真価が問われることになるのです。
もう10年以上昔の話ですが、函館のあるご信者は、当時入信してまだ日の浅い初心の信者でした。そのご信者が交通事故にあったのです。脇見運転のミニバンに背後から跳ねられて、体が5メートルも飛ばされたといいます。背骨の圧迫骨折でした。
後で知ったのですが、当たり所がほんの少しずれていたら半身不随になるところだったということです。
私は、第一報を聞いて真っ先に思いました。
「入信した途端に事故に遭ったことを、その方はどう受け止めるのだろうか」
「どうして?」と疑問に思うか、「お計らい」と喜ぶか。
古参のご信者でも、場合によってはぐらつきかねないところです。まして入信して間もない方だから、大いに心配しました。
ところが、そんな心配は全く不要でした。その方は、急所を外れたことも、入院している間に飲食店を任せている若い店長が立派に育ったことも、何もかもご信心のお蔭だと喜んでいたのです。
そういう彼の受け止め方ができたことこそが正にお計らいで、本当に有難いと思いました。
最初に述べたように、 ご信心をしていれば何も彼もが順調ですべて万々歳だとは限りません。ご信心に一生懸命打ち込んでいても、大なり小なり困難に立ち向かわなければならないことが必ずあります。
この時、ご信心がぐらつくか否か、ここが踏ん張り所なのです。
そもそも試練とは、それを乗り越えた人が後から振り返って、それを「試練だった」と言うのであって、困難に直面して、そこで挫折・脱落した人にとってはただの「苦い体験」に過ぎません。
試練は、それを乗り越えるべき人、乗り越え得る人にのみ訪れるのです。
だから、困難に遭遇した時こそ、ご信心を堅固にして乗り越える努力をしなければならないのです。
そうやって試練を一つ乗り越える度に、ご信心はレベルアップする。そのご信者は間違いなく信心が一段も二段も向上して、今もご奉公に励んでおられます。
厳しい言い方をすると、中途半端な気持ちで信心している人には、そういう試練は訪れません。だから試練に見舞われたら、ご法様から「信心に打ち込んでいる」と認められたと前向きに受け止めて、決して動揺することなく、一層堅固に信心を持って、頑張って乗り越えて頂きたいと思います。
幼少期に聞いた話ですが、毛利元就に滅ぼされた尼子氏の遺臣・山中鹿之助は、お家再興を誓って「我に七難八苦を与え給え」と祈ったとのことです。
戦前の教科書に載った話ですが、その山中鹿之助ではありませんが、我われ信者も、信心増進を誓って「試練を与え給え」と、進んで試練を求めるくらいの気合を持ちたいと思います。
日真大徳のお教歌にこうあります。
「面白や身を任せたる法の舟 雨も降れ降れ風も吹け吹け」
反対にこういうお教歌もあります。
「及びごし腰の座らぬ信行は 突き飛ばされて直ぐにへたばる」
試練をしっかりと受け止めて立ち向かうか、逃げて脱落するか。身に降りかかった困難を、人生の岐路、いや成仏か否かの魂の岐路だと受け止められるよう、揺るぎないご信心を普 段から固めておきたいものです。